飢えと空腹の違い。イクラが食べたい。

「現代人は背広を着た縄文人である」
 研究の御指導をいただいている鹿児島大学医学部の丸山征郎教授が、現代人の生活環境と病気の矛盾をこのような表現から説明をなさっています。現代人特有の病気も、はるか太古の御先祖様の時代から普遍的に存在する病態も、本来、人類がその進化のプロセスの大部分を過ごしてきた環境への適応過程から読み解くと、人間の体が非常によく作りこまれていることが解り、自然の力への畏怖を感じずにはいられません。しかし、現代文明は、人類の体が現在の形になってからの数万年以上という気の遠くなるような年月から比べると、ほんの瞬きの如くにすぎません。本来、常に飢餓・干ばつの恐怖と背中合わせで生きてきた御先祖様たちに与えられた、原始社会を生き抜くために与えられた能力・特性が、現代の飽食社会では、矛盾として病気を引き起こすことがよくあります。食べすぎるから糖尿病や高脂血症になり、脳卒中心筋梗塞などを引き起こしやすくなります。しかし、ブドウ糖や脂肪分は本来人間が生きていくのになくてはならない栄養源です。原始社会では、飢餓を克服するのには非常に有用かつ貴重で、次にいつ食べられるか保証のない日常のなかでこれらの栄養素を美味しいと思うように仕組まれていることによって、危険をおかしてでも狩りに出かけていたのです。ですから、その子孫たちである我々は、食べすぎはよくないと知りつつも、味覚の誘惑に駆られて飽食を続けるのです。
 癌の患者さんが直面する食欲不振・体重減少・脱水などの症状を現代人の観点から見ると、「食の楽しみ」を奪われた悲惨な状態と映ります。患者さんを見守る御家族がオロオロと御心配される光景を良く目にします。えてして、在宅で療養されていた患者さんの入院のきっかけになりがちです。
 近年、癌の末期状態にある患者さんには、過剰な栄養補給や点滴は、かえって状況を悪化させるということが学会でも認知されて、ガイドラインも作成されました。実は、脱水の傾向にあるほうが、患者さんの状態が穏やかに衰えていき、癌末期特有の多彩な症状がむしろ緩和される傾向にあるのです。
 「食べられないから点滴」
 は、必ずしも合目的とは言えない病態が、癌の末期なのです。
 「栄養を癌に取られるからやせる」などという根拠があいまいな仮説が、かなり古くから未だにもっともらしく語られるところを見聞きします。ならば受精卵という名のたった1個の細胞から10ヶ月の間に3kgの赤ちゃんに成長する生命体と栄養を共有する妊婦さんは、なぜげっそりとやせないのでしょうか?
 癌の患者さんに限らず、インフルエンザ等の感染性の病気や、外傷などでも食欲が低下することはしばしば経験します。
 なぜやせるのかの理屈については、もう少し研究成果を掘り下げていずれ論文にする機会を待ちたいと思いますが、丸山先生にならって、私なりに「背広のなかった縄文人たち」の時代から読み解いてみますと、栄養・水を体が要求しなくなる理由が垣間見えるような気がいたします。
 「背広のなかった縄文人たち」にとって、食料と水は、常に手に入るとは限らない貴重品だったのです。病気になると浪費しないようなシステムが機能すると考えると、合目的な一面が見えてきます。
 生命の危機的状況においては、免疫システムなどを含めた「生命力」を動員して、まず自分自身がどうやって生き残るかを模索しますが、自分という「個体」を守れなくなると、「子」「家族」を守ろうとし、それが難しくなると「群れ」を守り、「種」を守ろうとする本能が、人間に限らずありとあらゆる生命体に共通して存在するように思います。
 元気な働き盛りは、水と栄養を十分に補給して英気を補充し、翌日の狩りでさらに豊富な獲物を獲得して、結果として自分自身と家族・群れを守ります。しかし、自分の体が衰え、明日以降の食料と水を確保できなくなったら、なけなしの食べ物と水を我が子に優先して与え、明日以降を生き延びさせようと託すのではないでしょうか?生産能力が乏しかった原始時代では、飢えは、病気以前の「死の恐怖」を意味する苦痛だったはずです。
 じつは、自らの水と食料を子供に優先して与えた親の子供たちが飢饉・干ばつの危機を乗り越え、その子孫たちとして我々現代人が存在していると考えれば、生命の危機的状態かどうかを体が模索し始めると食欲が低下し、長期的生存がかなわなくなった体が脱水を好む理由としてつじつまが合うような気がいたします。
 ここ数年、子供がまだ小さいこともあって、お寿司は回転寿司か出前のお寿司を食べることが多いのですが、出前のお寿司で、せつない思いをします。
 さすがに自分の子ですので、好みが似ているのは仕方ありません。ですから、出前のお寿司では、私は大好きなイクラ軍艦巻きを殆ど食べられないのです。子供がうれしそうに私の分(のはずだった)のイクラを頬張る姿に、ささやかな家庭を持った喜びを感じることでもって、イクラの味覚に変えるのです。回転寿司では、にっこりとパパも子供たちもイクラを心置きなく(財布の許す範囲内ですが)おかわりできる幸せに身を震わせています。
 「空腹は最高のスパイス」といいます。しかし、これは飽食の時代を謳歌する一部の文化圏の話で、飢えは苦痛・恐怖なのです。「食欲がない」という状態。原始時代の状況では、けっして罰として与えられた苦痛なのではなく、それまでの人生においての功労の果てに、「飢えの苦痛・恐怖」から開放された状態だったのかもしれません。
 「飢え」から開放され、「食」への執着から開放された時、私も、出前の桶からイクラを平らげる子供たち(自分の人生にあっては、やはり願わくばそれが孫かひ孫であって欲しい気もしますが)に、心からニッコリと微笑みながら「美味しいかい?ぜんぶお食べ。」と言えるのかも知れません。