旅立たれた恩人に

 子供たちが、手紙を書いています。
 昨夜、子供たちが会うことのかなわない場所、神様のおそばへ旅立たれた恩人にあてて。
 私たち家族にとって、身内のいない御殿場での暮らしを思い出す上で、なくてはならない存在の一人です。子供たちにとって、はじめての集団生活の中で「先生」と呼んだ、かけがえのない方です。朗らかで、太陽のような方でした。
 私たちが浜松へ帰ってから、家内がメールなどのやり取りをさせていただいていたようです。 
 病気をされて手術を受けられたと、一年ほど前に連絡をいただき、案じておりました。
 
 「体に些細なことでも異変を感じたらなおさらのこと、体に問題を感じていない時にこそ、検査を受けて欲しいと思います。」
 常々、ことあるごとに、患者さんのみならず、お話をする縁のある方たちに対して口にしているつもりでした。
 照れ笑いで、「そのうちに」とでもおっしゃったかどうかも記憶は定かではありませんが、まさにその検査を、一般論としてではなく、強く説得してでも受けていただく機会を、あの当時に設けておけばよかったと、無力感を感じます。
 
 私が御殿場に赴任した当初は、「今日は大きな検査が2件もある」と、看護師さんたちがそわそわしていました。まだ入院扱いで検査を行っていました。
 私も若く、何とかその検査について独り立ちしたというレベルでしたが、「外来検査なのだから、身近な検査として、この病院としてだけではなく、地域に普及・定着させなくてはならない。この病院がこの町の中核病院ならば、年間1000件はこの検査をここで行わなくては、この町の市民の健康に生きる権利を損なっている。」と喝破してみても、当初は半信半疑のような空気がただよっていました。
 患者さんに決して「つらい」と言わせないよう、繊細な検査を心がけ、検査に対しての偏見や食わず嫌いを払拭しようと懸命に取り組むうちに輪も広がり、子供たちがその恩人のことを「先生」と呼ぶころには、年間1500件以上の検査の枠を内視鏡医同士で分配することに工夫がいるほど活気のある施設になったはずでした。
 「かたっぱしから、誰彼かまわずに検査をしているんじゃありませんか!?」
 以前、後輩と、お酒の席で口論となったことがありました。
「『つらくない』検査ならば、繊細な技術を追求すれば、『念のために』受けることをためらうことのない、身近な医療行為にすることが出来るはず。
 未然に、ポリープまたは早期癌の段階で発見し、体にメスを入れることなく克服することが出来れば失うものはないし、得たものが大きいと感じられるはず。
 『つらくない』検査ならば、異常なしという結果を得たことにも満足してくれるはずだ。」
 今でも私の信念です。
 子供たちは「先生」から、大事な存在を失うつらさ、美しく大切な思い出を守ってゆく尊さ、命の本質的な重さを、教えていただいたようです。
 私はといえば、恩返しの機会をもてなかったことを恥じるばかりですが、地域密着型の医者として、これまでの何倍も地道な啓発活動から、着実に取り組んでいかなくてはならないということを教えていただいたと思っております。